「……すまない、レオンティウス」
雷で貫かれた筈なのに、まだその白い肌を保っている『兄』に、口付けた。
あぁ、貫いたのは自分だ、まだこんなに悲しい――まだこの手が、痺れている。
もう自分は沢山の生命を殺めてきた。決して赦されることではない。
だから、罪を赦すよう請い願うことはしない。
「すまない……」
かつて、彼は自分が生まれたのを見たのだろう。
かつて、彼は双子が生まれたのを見たのだろう。
何故手放したりしたんだ、と責めることはしない。今更無意味だ。
神託――抗えない《運命》の言葉――だから自分は、抗うのだ。
「レオン……あぁ……」
この兄の髪質は、妹とよく似ている。自分は、撫でつけることはできなかったから。
一房の金は、雷神に選ばれた者? いいや――彼は結局、何によっても救われなかった。
「レオンティウス……!」
俺がずっと、傍に居てやれば良かった。どうして傍に居られなかった。
こんなにも愛しい兄、どうして俺は一人にしてしまった?
俺には母が居た……父が居た……妹が居た……仲間が居た。
時に詩女神たちの歌が聞こえた。
「すまない……!」
自分を見守る人は沢山居た。一人だと思った時さえ、独りではなかった。
誰しも冥府の王に奪われたけど、彼らとの思い出はいつも傍に在った。
――けれど。
「……レオンティウス……」
彼は一人だった。独りだった。傍に沢山の人が居ても。分かる。
幸せじゃなかった。幸福に見えた。でも不幸だった。
ずっと独りだった。多分、俺のことを待っていた。
記憶にはなくても、言葉ではなくても、分かるんだ。
「俺達は、兄弟だったのに……ごめん……」
一緒には居られなかった。どうしてだろう。
《運命》はいつでも残酷で、大切な人を容赦なく奪ってゆくから。
……だから。
「俺はこの戦いの上に、平和な世界を築くから……! せめて、想いを継いで見せるから!」
だから待っていて。レオン兄さん。いずれ俺もそっちへ行く。
涙を湛え、最後にもう一度長く長く口付けて、俺はようやく立ち上がった。
レオンの槍がエレフの双剣に勝利したのである。
「……終わりだ。アメティストス」
「くっ……」
冷たい目で、突然ひざまずいたエレフを見下ろすレオン。
槍を突き刺そうとはせず、エレフの言葉を待っている様だった。
「……殺せ、レオン」
レオンティウス、とは言わなかった。
レオン、とあくまで愛称で。
ぴくりとレオンは反応する。
「私は……お前に殺されるのなら、本望だ」
「何を―――」
「レオン」
エレフは顔を上げ、真っ直ぐ見て名を呼んだ。
その瞳は、あまりにも澄んでいて―――。
「知って、いるのだろう?」
「……何を……?」
怯える様にレオンは答えた。
しかしエレフは目を逸らさない。
「レオン」
柔らかく、優しく、エレフは呼んだ。
レオンの名前を。
ただそれだけなのに、レオンはその瞳を見開いて、驚きを見せた。
「……エレフ……!」
「……あぁ」
そして直ぐにガクリと膝を落として、エレフの腕の中に収まるレオン。
エレフは心底愛おしそうに、レオンを抱き締める。
レオンはただ、ぼろぼろと涙を零した。
「あぁ……っ、エレ、フ……!」
ぎゅうとしがみ付いてくる兄の頭を、エレフは撫でる。
もう何処にも行かないから、と呟いて。
「こんな……嫌だ、こんなのは……っ」
「……私も嫌だ。折角、会えたのに……」
抱き合う。死神にも渡さない様に、強く強く。
「終わりだなんて……終わりなんて、来なければ良いのに……」
レオンは心からそう願った。
弟の腕の中に居る、ただそれだけで幸せなのに。
死は何故身体を蝕む? 不幸は何故訪れる?
やり切れない思いで、レオンはやんわりとエレフの拘束を解いた。
「レオン?」
呼ばれたが振り返らずに、レオンはふらふらと先程弾いたエレフの剣を取りに行く。
刃が多少こぼれてはいたが……これくらいなら大丈夫か、とエレフと向き合った。
「私はもう、お前を誰にも、渡さないからな」
漸く再会(あえ)た愛しい人、とレオンは言う。泣き笑いの表情で。
分かった、とエレフも答える。
神妙な顔付きは、直ぐに笑顔に変わった。
「……愛してる」
「私もだ……好きだよ、エレフ」
抱き合う。
刹那。
「これからも、ずっと……」
「一緒に居よう、レオン」
生暖かい液体が身体を伝うのを、エレフは知った。
しかし目の前では、ずっと求めていた人が微笑んでいる。
もう離さない、とエレフはレオンを強く抱き締めた。
「死ぬな……死ぬなっ、レオンティウス!」
泣きじゃくりながらそう言うのは、先程世の終わりかと思う程の叫び声を上げた人物。
名はアメティストス、という。
「……馬鹿だな……」
お前が殺したんだろう? と言って、レオンティウスは笑った。
一束の金が赤に濡れている。
「そんな……そんな、だって……!」
お前が兄だなんて、知らなかったんだ、と。
事実、アメティストスはそんな事は知らなかった。
つい先程、剣で貫く寸前に、耳元で囁かれた言葉。
「愛しい弟―――さぁ、遠慮なく私を貫け」、と。
「馬鹿……!」
剣は急所を外した。
しかし出血が激しい。レオンティウスの命はもう幾らも保(も)たないだろう。
アメティストスが流した涙はレオンティウスの頬に落ちた。
「馬鹿は……お前だ……私が死ぬ、事のメリット、くらい……知って、いる、だろう……?」
「もう喋るな!」
冷たい床に横たえられたレオンティウスの身体からは、だんだん体温が奪われていく。
アメティストスの体温は上昇。奪っている様でやり切れない。
涙を零して、一緒に居なくなってしまえれば良かったのに、と思う。
「お前が兄なら……私は、兄を……」
殺してしまったのか。殺してしまうのか。私は兄殺しか。奴隷達を解放する為に。
解放する為なら血縁を殺す事さえ厭わない冷徹者か。私は永遠に讃えられるだろう。
誰も私が兄を殺した事など気付かない。だって私も知らなかったのだから。
気付かないまま、そのまま日常に埋もれていく。兄の事など忘れて。
「気にするな……もう、忘れ、れば良い……」
「じゃあどうして! あの時に言ったんだ!」
「……言う、義務が……有った、からだ」
腹からは多量の血が流れ出る。
ぼろぼろとアメティストスは涙を流した。
「馬鹿だな……お前は、本当に……子供だな……」
「子供で良いから……!」
私の傍に居てくれ、兄さん。
「……初めてだ」
弟。愛しい弟。結局皆で一緒に居られたのは―――。
レオンティウスは穏やかに目を閉じる。
荒く、不規則だった呼吸音がゆっくりと整えられていった。
「……レオンティウス……?」
握っていた手が滑り落ちる。
温かさが未だ残っていて、アメティストスは、無意識の内にそれに縋り付いた。
「レオンティウス! レオンティウス!?」
レオン、と小さく呼ぶと、ぴくりと瞼が動く。
しかし目を開ける事はない。ただ、呼吸がゆっくり深く。
アメティストスに分かったのが、それが『死』だと、それだけだった。
「あ―――」
兄殺し、と罵られる光景が脳裏に映る。
ちらついて仕方がない。いつこんな光景を見たんだろうか。
思い出そうとすると頭が痛くなり、これ以上の事は頭が拒否する。
「駄目だ……駄目だ! 俺は、兄を殺してはいない!」
床に頭を打ち付けた。額から血が流れても、アメティストスの紫の瞳は全く曇らない。
怒りと憎しみ、そして悲しみに濡れている。
「レオンティウス……」
ずっと探していたのは彼だったのか。面影が。
アメティストスはレオンティウスの手に槍を握らせ、自分の手を添える。
……未だ、冷たくない。なぁ、生きてるんだろう?
微笑んで、突き刺した。
レオンティウスの頬に<<滴>>が飛ぶ。
「すまない……俺は……」
殺しては、いないよな?
一緒に死ぬんだもんな……。
アメティストスは目を閉じた。
レオンティウスは、漸く気付いたらしかった。
「何で……そんな……」
言葉にならなかった。
ガクガクと足が震えて、レオンティウスは槍を落とす。
しかし目の前のアメティストスの紫水晶の瞳は、ただ冷たい光を湛えて、レオンティウスを見下ろしていた。
「……今更、気付いたのか」
その声は嘲笑う様であり、だが何処か、寂しげでもあり。
愚か者と笑う様な。誰かに似ている、とレオンティウスは思った。
「私は……最初から、知っていた」
「馬鹿な……」
嘲笑を浮かべながら言うアメティストスの言葉に、言葉を失いつつも反論する。
しかしそれはとうに意味を成さない物であると、発したレオンティウス本人が知っていた。
「それならば、何故―――」
黄昏時。闇が時折、アメティストスの表情を隠す。
レオンティウスはそれが不安でならなかった。
――闇が覆い隠している内に、彼が消えてしまうのではないかと。
その双剣で貫かれるのなら未だマシだ。何も言わずに、消えてしまうより。
――折角、知ったのに。
刹那、その理由がレオンティウスには解った。
「――わざと、か?」
しかし信じたくはない。
今迄は『ただの敵』。――いや、『ただの』と云うには、少し語弊が有るかもしれないが。
何にせよ、今のレオンティウスにとって現在対峙しているアメティストスの存在は、『今迄のアメティストス』とは確実に違った。
「だったら、どうする?」
やはり嘲笑う様に返ってきたのは、そんな言葉。
―――信じ、たくない。お願いだから、私に希望を……残してくれ。
こんな気持ちでは、到底民を導く王にはなれないとレオンティウスは自嘲気味に思う。
……王になれなくとも良い。ならば、せめて、それだけは。
権力の座より遥かに大切なものが在る。
レオンティウスは先程まで槍を握り締めていた手を、アメティストスの方に伸ばした。
「私は――それでも、良い」
無防備な姿である。戦場で曝すには、あまりにも。
しかしそれでも敢えてレオンティウスがそうしたのには、勿論訳が有った。
「それで――お前が、救えるのなら」
一瞬の間。その後、アメティストスは鼻で笑う。
しかしその一瞬の間を信じたいと、レオンティウスは思った。
未だ、大切な気持ちを失くしてはいないと。
「私は知らなかった。それをお前は知っていた筈だ。それなのに、わざわざ教えたという事は―――」
「!」
次に差し出したのは、槍を持っていなかった方の手。
アメティストスに空の両手を差し出し、或いは降伏している様にも見える。
「―――救って、ほしかったんだろう?」
レオンティウスの微笑みは、花が綻ぶ様に。
とても綺麗だと、不覚にもアメティストスは思う。
――だって、敵だぞ? しかも同性。そんな事を思って、一体どうする――?
躊躇った。確かにその瞬間、アメティストスからは、敵対する気持ちの一切が消え去った。
「エレフセウス!」
アメティストス――エレフセウスは、ドンと大きな衝撃を受けたのを感じる。
それは、レオンティウスが勢いよく抱き付いたからだった。
「私の愛しい弟……あぁ、エレフセウス……!」
「ッ!」
やめろ、と先に振りほどいたのはエレフセウス。
その紫水晶には、やはり、想いが宿っていた――それは既に、冷たくはなかったけれど。
そして悲しい瞳(め)をしたのは、レオンティウスだった。
「私は……私は、お前を殺せない」
殺せ、とレオンティウスは言う。
瞬間、エレフセウスの瞳に殺気が戻ったのを知ったからだった。
既に殺気はすっかり消え失せていたのだが、レオンティウスはそんなの知らない振りをして。
地面に、膝を落とした。顔を、両手で覆った。
「私を殺せば――奴隷達は、皆解放される。殺された者も浮かばれる事だろう」
だから殺せ、と。
やはり顔を上げず、再度の催促をするレオンティウスに、エレフセウスは怒りを爆発させた。
「浮かばれるだと! お前1人の血でか! 奴隷達が、私達が一体どれだけの苦しみを受けたと思っている!? お前1人の血で贖い切れるものか!!」
「――殺せ」
静かな言葉に、エレフセウスは黙ってしまう。
「足りないかもしれない。しかし、確かに償いにはなるだろう。私は――」
それなら十分だ、と。
両手を下ろしてレオンティウスは、その表情をエレフセウスにだけ見せた。
両頬に涙は伝っていたが、確かに笑顔だった。
「その槍で、私を貫け」
レオンティウスは自身が落とした槍を拾い上げる。
あくまでも、エレフセウスにトドメを刺されるつもりで。
自身でケリを付ける気は毛頭無いのか、エレフセウスの手に無理矢理押し付けた。
「レオンティウス―――ッ!」
「エレフセウス。お前はこれを望んでいたのだろう? 私が死ぬ事が、お前の望みだった」
「な……」
違う、とかろうじてエレフセウスは否定する。
「私が死ねば、奴隷達は解放されるだろう。……イコールだ」
躊躇うな、とレオンティウスは囁いた。
躊躇えば戦場で散る事になると。
お前には待つ人が居るだろう、と笑った。
「躊躇するな。お前がせずに、誰がする」
「待つ人など、もうこの世には居ない! お前の方が、余程……!」
「ッ!?」
エレフセウスはレオンティウスの手を重ねる。
ぎゅと同じ様に槍を握らせ――そして、貫いた。
「な―――ッ」
呼吸が、止まる。瞬間的に。
このまま死んでしまえたら、と思った。確かに。
槍を通して生暖かい血が伝わる。
これが……繋がった血の、暖かさか、とエレフセウスは思った。
「……レオン、ティウス」
貫かれたのは、エレフセウスだった。
貫いたのは――レオンティウス、だったのかもしれない。
「何故! 何故だ! お前は、あれ程―――」
「……憎んでた、わけ……ないだろ」
唯一エレフセウスが憎んでいたとするなら、妹のアルテミシアを殺した人物かもしれない。
奴隷としての扱いに死にたくなった事もあったが、それでも今までこうして生きてきた。
憎しみを覚えるのは、たった1人。それはレオンティウスではない。
「お前が死んで……私……いや、俺には……何の、得もない」
「嘘だ……お前は、お前はっ!」
「……もっと、言いたい事が、沢山有った」
お別れだ、とエレフセウスは言った。
穏やかな声である。激情は既に収められていた。
「待て……待て、エレフ!」
「……その名前……久しぶりに、聞いた」
もっと呼んでほしかった、お前に、レオン。と。
エレフセウスは言って逝った。
心臓の音も、呼吸の音も、もう何も聞こえない。
「エレフ……?」
レオンティウスは呼びながらぼろぼろと涙を零した。
――信じない。私は、信じないぞ?
たった1度だけ弟に呼ばれた、『レオン』という名を抱き締めながら―――。
いつもそうだと思いながら、俺は想う事しか出来ない。
「……ミーシャ……レオンティウス……」
皆皆、死んでゆく。俺の思い出を綺麗に留めておくかの様に。
確かに、俺の中じゃミーシャもレオンティウスも綺麗なままだ。寧ろ、思い出ならばどんどん美化されてゆくだろう。
……なぁ、分かってるんだろ、2人とも。俺はそんな事、求めちゃいないって。
「ミーシャ……」
復讐の炎に突き動かされた。
浅はかな考えではなかったと信じたいが、……ミーシャはこれで笑ってくれるだろうか。
「……レオンティウス……」
何故、笑って逝ったのか分からない。
しかしあれは決して、復讐だけを考えていた俺を嘲笑うものではなくて。
寧ろ……愛しい者を手放したくない、という悲しみに似ていた気がした。
「……愛しい者?」
一体誰の事だ。自嘲。
「あぁ……好きになれたら、良かったのにな」
赦せば良かった。ミーシャを殺した事など。
それにとらわれ過ぎていたのは多分俺で、ミーシャはそこまで望んでいなかったのではないか。
……空回り。そして、大事な者を亡くす。
「……っ」
あぁ結局、この手の隙間から、全て零れ落ちていくんだ。
掬い切れない。……無理だよ。
「ミーシャ……レオンティウス……すまない……」
愛したかった。愛してほしかった。
もっと普通に生きたかった。別の場所で出会いたかった。
好きだと思った。愛していた。
……そして……。
「……次の復讐は、誰にすれば良い?」
呟いて、俺は天を仰いだ。
「……引ける訳がないだろう」
2人の男は、睨み合いながら喋っていた。
一見、平静な会話の様に聞こえるが、片方の男はもう1人の男に刺されているのである。
致命傷ではないとはいえ、呼吸をする際にさえ痛みを感じる筈であるから、喋るなど常人には出来ない事であった。
「……今ここで抜いてしまえば、きっと、死んでしまうだろう」
誰かに聞こえない様にと人目を憚っているのか、短剣を突き刺している男は口を寄せて囁く。
「すまない……こんなつもりはなかったんだ」
「すまない……? つもりじゃ、なかった?」
刺された男は、謝罪を嘲笑うかの様に言った。
顔が歪む。
「今更……遅いだろう」
ハと刺した男が顔を上げた。
男の泣き笑いの表情が視界に入る。
怯える様に、びくりと身体を震わせた。
「私は……何の為に……」
「! 待て!!」
短剣を血が伝う。
男が身をよじり、傷口を広げたのだった。
意識を失わせない様にと、必死に男は声をかけるが、もう瞼は殆ど閉じられている。
何故、と言いかけた。
「何の、為に……生きた、んだろう、な……」
お前に出会う為だったのかな、と言った所為だった。
床に崩れ落ちる様に倒れた男は、既に短剣から手を離し涙を流す男の頬に手を添える。
「泣くな……お前の所為では……」
「何で……どうして……」
気付くのが遅すぎた、とぼろぼろと涙をこぼし続けた。
今更告げられるなんて遅いんだ。
どうしてもっと早く教えてくれなかった?
知っていれば、絶対にこんな事なんてしなかったのに……。
「殺したくなんて、なかった……! ミーシャも大切だったけれど……あぁ……どうし、て……」
今まで簡単に人を殺めてきた手を、握り締める。
そんな男の頬を伝う涙を、もう呼吸も絶え絶えの男の指が拭った。
「……泣いては、別れられん……さぁ、笑ってくれ……」
エレフ、と男は呼ぶ。
呼ばれたエレフは、涙も止めてハと顔を上げた。
「嫌だ……! 笑って居なくなるのなら、俺はもう二度と笑わない!!」
「……相変わらず、わがままだな……」
どちらにしろもう終わりなのに。
現実を告げる様な男の言葉に、エレフは首を横に振る。強く。
どうしてそんな事を、とでも言う様に。
「自分が殺した、などとは……思うな、よ? 私は……これで、良いんだ……」
笑ってくれ、と男は笑った。
「……嫌だ……笑えるわけ、ないだろ……?」
そう言って、エレフは男に口付ける。
一瞬、触れるだけのキスが、男の唇に熱を持たせた。
「……エレフ」
さよならの時間だ、と。
握っていた手が離れてゆく。
「っ! 待って、待ってくれ、もう少しだけでも!!」
聞こえていないとは知りつつ、エレフは叫んだ。その手を握り締めて。
「……レオン……」
唇の端に、無理矢理微笑を浮かべた。
……見ていてくれただろうか? 俺の兄弟(あやめたひと)。
そのまま、エレフは天を仰いだ。
……アメティストス、お前は幸せじゃなかったのか?
彼は私の隣に倒れたまま、そう問う。
既に呼吸すら苦しくなっていた。
幸せじゃなかったかな。私は案外すんなりと答えられた。
……でも、だったらお前を殺さなきゃ良かったな。
今は心からそう思う。
絶え絶えの呼吸でそう告げると、彼は問い返してくる。
……私ももう、長くはないと感じていた。
私は、最期にお前と出会えて良かった、と言う。彼の目を見て。
自分に言われている事が分からないのか、彼はただ私の方を見るだけだ。
「……好きだ、レオンティウス」
その言葉だけ、何故かはっきりと言った。どうか伝わりますようにと。
彼がぶるりと身体を震わせると、腹に刺さった短剣から血が零れ伝う。
そして彼は、最後の気力を振り絞って、レオンと呼んでくれ、と言った。
……何故、そんな事を言われたのかは分からない。
しかし彼は、宿敵である私に向かって確かに、そう言ったのだった。
「……私の事を、最期に……最後で良いから、エレフ、と……」
私は言う。
レオン―――懐かしい響きだと、思った。
「……エレフ」
「……レオン……」
同じ様に名前を呼んで、多分私は笑っていた。
彼は、泣き笑いの表情で。
そして、彼の頬に手を伸ばして―――
……アメティストス、お前は幸せじゃなかったのか?
私は彼の隣に倒れたまま、そう問う。
既に呼吸すら苦しくなっていた。
幸せじゃなかったかな。彼は案外すんなりと答えた。
そして彼の瞳が私を突き刺す様に。
……でも、だったらお前を殺さなきゃ良かったな。
絶え絶えの呼吸でそう告げられ、私はつい問い返してしまう。
……私ももう、長くはないと感じていた。
彼は、最期にお前と出会えて良かった、と言う。私の目を見て。
つまりは私に言っていると思うのだが……一体何故なのか分からず、無言で先を促す。
「……好きだ、レオンティウス」
その言葉だけ、やけに大きくはっきり聞こえた。
ぶるりと身体を震わせると、腹に刺さった短剣から血が零れ伝う。
そして私は、最後の気力を振り絞って、レオンと呼んでくれ、と言った。
……何故、そんな事を言ったのかは分からない。
しかし私は、宿敵である彼に向かって確かに、そう言ったのだった。
「……私の事を、最期に……最後で良いから、エレフ、と……」
彼、アメティストスは言う。
エレフ―――懐かしい響きだと、思った。
「……エレフ」
「……レオン……」
同じ様に名前を呼んで、多分私は顔を歪めた。
彼は、笑っていた。
そして、私の頬に手を伸ばして―――
女は言って、ドサと倒れた。
……彼女は、誰だっただろうか? 知り合いだったとしても思い出せない。
「……気安く名を呼ぶな」
エレフは強い怒りを覚え、既に絶命している女の背中を踏み付けた。
女が伸ばした手の先には……安らかな寝顔を見せている、レオンティウス。
その安眠を妨げさせはしない、とエレフは指をも踏んだ。
「……置いていかれたのは、俺だ」
そして、レオンに止めを刺したのも。
それがたまらなくやり切れない。
「お前は結局……同じ所へ行くのだろう?」
苛立ちと怒り。やり場のない感情がエレフを苛む。
誰かの血溜まりに膝を落とし、涙を堪えた。
……ミーシャが殺されたのは、確かに憎い。
しかし、……レオンを失った事は、もっと大きな穴をエレフの心に開けた。
「あぁ……レオンティウス……」
いっそこのまま後を追えたら、どれだけ楽だったろうか。
しかし……勝った者には勝った者なりの、けじめの付け方というものがある。
このまま投げ出すわけにはいかない。決して。
何しろ、奴隷が解放されるのを待ち望んでいる者は、沢山居るのだから……。
「将軍閣下! ご無事ですか!!」
「……あぁ」
幸い、エレフが受けた傷は致命傷には至らなかった。
刺し違えたがしかし、レオンは無意識の内に手加減をしたのだろうか。
『弟』なら何とかしてくれると……?
エレフは漸く血溜まりから立ち上がる。
「こちらは制圧しました」
「……そうか」
もうこれ以上、何も言えそうになかった。
心の傷が広がる。
「……ミーシャ、俺は……俺は、正しいんだよな……?」
雨が降る。しかし、それは最愛の双子の妹を思い出すものではなく。
偉大な兄、レオンティウスの死を悼んでいるかの様だった。
「……アメティストス……」
……いや、微笑と言っては語弊が有る。
不敵な笑み、と例えるのが一番近いだろう。
レオンは緩やかに崩れ落ちていきながら、目の前に居る男の名を呼んだ。
「お前は……」
エレフも膝を付く。
エレフの方が貫くのは早かったので、致命傷には至らなかった様だった。
しかし、決して軽傷ではなかった筈である。
「……憎んでいたか。私の事を」
レオンはもはや、生命の淵に立たされていた。
死の間際に聞く事ではないと思いながら、エレフは口を開く。
「いいや、お前だけではない……ミーシャ、妹を死に追いやった全てを、憎んでいた」
その言葉を聞いて、フとレオンは笑いを漏らした。
「そう、か……それならば、良かった……私だけではないのだな、私を特別恨んでいたわけでは……」
「……?」
一体どういう事か分からず、エレフはレオンと距離を取る。
その両手には、未だ双刀が握られていた。
「……アメティストス」
生の残り少ない時間を惜しむかの様に、レオンはエレフの名を呼ぶ。
「……来て、くれ」
何故か呼ばれるがままに、エレフはレオンの方へ近付いてゆく。
直ぐに、レオンの手がエレフの頬に触れる所まで来た。
「……っ!?」
口を開こうとしたレオン、しかし柔らかいものが押し当てられ開く事も出来ない。
唇をなぞった生暖かい感触に、レオンは暫く呼吸すら忘れる。
「……アメティストス……?」
「逝け」
「……っ!」
浅い呼吸を繰り返していたレオンに止めをさす様に、エレフは抱き締めて双刀を放った。
ざくり、と今度こそ確実に急所を貫いた感触が伝わり、漸く安堵する。
と同時に、その事に安堵を覚えた自身が、とてつもなく怖いと思った。
「……本当は、見た瞬間から、憎しみなんて消えていたんだ」
脇腹から流れ出す血を押さえながら、エレフは吐き出す様に呟く。
「でも……ミーシャの為に……」
もう彼女は戻ってこない、けれど、それ以上に。
しかしエレフはその為に戻ってこなくなった、彼の事を想ってやまなかった。
